こんにちは。高石市で創業55年のリフォーム会社ナガハラで、事務を担当している楠本です。いつもお電話や事務所でお話しくださる皆さま、ありがとうございます。

今日から、私たちが暮らし、お仕事をさせていただいている高石のまちの歴史を、スタッフが順番にご紹介していく「高石物語」をはじめることになりました。最初の案内役は私です。
お茶でも飲みながら読んでいただけたらうれしいです。
昔の高石の海は「高師の浜」と呼ばれていたんです
今の高石の海辺といえば、工場が並ぶ景色を思い浮かべる方が多いかもしれませんね。でも昔は「高師の浜(たかしのはま)」と呼ばれ、白い砂浜と青い松林がずっと続く、それはそれは美しい場所だったそうです。
古くは万葉集にも詠まれたと伝えられていて、想像してみると、なんだかのんびりした気持ちになりませんか。
百人一首にも登場する、私たちのまち
この高師の浜は、小倉百人一首にも詠まれているんです。72番、平安時代の歌人・祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)の一首です。
「音にきく たかしの浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ」
〜噂に名高い高師の浜の気まぐれな波は、かぶらないようにしておきましょう。袖が濡れてしまいますから〜

そんな意味の歌なのですが、じつは恋の歌でもあって、「浮気なあなたの言葉は本気にしません。あとで泣いて袖を濡らしたくないもの」という、ちょっぴり切ない気持ちが込められているのだとか。宮中で男女が恋の歌を詠み合う、古えの雅やかな「歌合(うたあわせ)」の席で詠まれたものだそうです。
千年前の都でも「有名な浜」だったなんて
歌のはじめの「音にきく」は「噂に聞く」「名高い」という意味。つまり平安時代の都の人たちのあいだで、高石の浜は「あの有名な浜ね」と語られていたということなんです。
高石で生まれ育った私は、子どもの頃にこのことを知って、すごくうれしかったのを覚えています。いつも遊んでいた見慣れたまちが、教科書に出てくるような昔の人たちにも知られていたなんて。
大人になった今でも、この歌を目にするたびに、あの頃のくすぐったいような誇らしさを思い出します。
江戸時代には、あの歌川広重も描いていました
高師の浜の人気は、その後もずっと続いていたようです。江戸時代の終わり、1853年には、浮世絵師の歌川広重が「六十余州名所図会」というシリーズの中で、この浜を描いています。

弧を描く白い砂浜に、青々とした松林、そして沖に浮かぶたくさんの帆かけ船。絵を眺めていると、潮風の香りまで届いてきそうです。
明治の海水浴場から、今も残る約100メートルの砂浜へ
明治時代になると、高師の浜は関西一円の人々でにぎわう海水浴場として親しまれるようになりました。その後、高度経済成長期に臨海コンビナートとして整備され、高石の海辺は地域の経済を支える場所へと姿を変えていきます。
それでも、高師浜には今も約100メートルの砂浜が残っているんです。大阪でいちばん北にある自然の砂浜で、たくさんの生き物たちが暮らしています。高石市ではこの砂浜を未来に残そうと、清掃や稚魚の放流などのイベントも開かれているんですよ。
千年前の歌人が眺めた浜の名残が、今も私たちのまちにあるなんて、なんだか素敵ですよね。

長く愛されてきたまちで、これからも住まいのお手伝いを
千年以上も前から人々に親しまれてきた高石のまち。ナガハラは創業から55年、このまちで暮らす皆さまのお住まいのお手入れやリフォームに寄り添ってきました。
「ちょっと気になるところがあって」という小さなご相談でも大歓迎です。高石市をはじめ、泉大津や堺など近くにお住まいの方も、どうぞお気軽にお声がけくださいね。
次回は、明治時代に浜辺の松林を守った、ある人物のお話です。また読みに来ていただけたらうれしいです。