こんにちは。高石市で創業55年のリフォーム会社ナガハラで、事務を担当している楠本です。前回の「高師の浜」のお話、読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。第2回も私が案内役をつとめます。

今回は、高師の浜の松林と、それを守ったある人物のお話です。
あの松林、じつは人が植えたものなんです
白い砂浜と青い松林で知られた高師の浜。あの松林は自然にできたものだと、私もずっと思っていました。ところが調べてみると、江戸時代の中ごろに近くの村の人たちが、潮風から田んぼや畑を守るために植えたのが始まりと伝えられているんです。

暮らしを守るために一本一本植えた松が、いつのまにか名所の景色になっていったなんて、なんだか心があたたかくなりますよね。
明治のはじめ、松林が消えかけてしまいました
ところが明治時代のはじめ、松林の土地が払い下げられて、たくさんの松が切られてしまいます。記録によると、2,600本以上あった松が、わずか800本ほどにまで減ってしまったそうです。3本のうち2本が消えてしまったと思うと、当時の浜はずいぶん寂しい景色になっていたのでしょうね。
大久保利通が詠んだ、ひとつの歌
この様子を見て心を痛めたのが、明治政府の中心にいた大久保利通です。大久保は松林を守るよう働きかけ、そのときにこんな歌を詠みました。
「おとにきく 高師の浜の はま松も 世のあだ波は のがれざりけり」
名高い高師の浜の松でさえ、世の中の荒波からは逃れられなかったのか、という嘆きの歌です。前回ご紹介した百人一首の「音にきく たかしの浜の あだ波は」をもとにした一首なんですよ。千年近く前の恋の歌が、明治の政治家の心にも残っていたなんて、少し胸が熱くなりませんか。
こうして生まれた、日本でいちばん古い公園のひとつ

大久保の働きかけがきっかけとなり、明治6年(1873年)、この松林は日本で最初の公園のひとつ「浜寺公園」になりました。今も公園の入口には、大久保の歌を刻んだ「惜松碑(せきしょうひ)」が立っています。

浜寺公園は堺市と高石市にまたがっていて、羽衣のあたりからなら歩いて行ける、私たちにとって身近な公園です。お散歩のついでに、ぜひ石碑を探してみてくださいね。
「羽衣」という名前も、松から生まれました
もうひとつ、松にまつわるお話を。浜寺公園には「羽衣の松」と呼ばれる名松があり、その名前が、明治45年(1912年)に開業した南海電車の「羽衣駅」に使われました。そして大正12年(1923年)には、駅のまわりの地名も「羽衣」に改められたそうです。

毎日のように耳にする「羽衣」という名前のルーツが、一本の松だったなんて、ちょっと素敵ですよね。
大切なものを、手入れしながら受け継ぐ
150年前に誰かが「残そう」と決めてくれたから、今の私たちも、あの松林の下をのんびり歩くことができます。住まいも同じで、すべてを新しくするだけでなく、良いところを残しながら手を入れていくことで、次の世代へつないでいけるものだと思います。
ナガハラはこれからも、高石の皆さまの大切なお住まいを守るお手伝いをしてまいります。気になることがあれば、どうぞお気軽にお声がけくださいね。
次回は、鉄道がやってきて、高石の海がにぎわった時代のお話です。また読みに来ていただけたらうれしいです。